禅では、自分を忘れ、ただ一瞬の現前に身をゆだねる境地を「無心」といいます。
写真もまた、それに通じるものがあるように思います。
レンズをのぞくその瞬間、撮る者の思惑や計算は消え、ただ光と形と気配だけが、ありのままの世界として立ち現れます。
シャッターが切られるとき、それは対象を捉える行為ではなく、世界と自己とがふと重なった刹那の証しにほかなりません。
写真とは、流れゆく時間の中にひらいた一瞬の禅・・・
すなわち、忘我の気配を静かに写し取る行のように感じています。
そのような感慨から、作品のタイトルには禅や仏教に由来する言葉を用いています。
なお、私自身は特定の宗教とは一切関係がありません(^^)

【一照】
「一照」とは、「一隅を照らす」という言葉に由来しています。
観る者がいない世界は、色も形も匂いも音も持たず、ただ無として広がっているのかもしれません。
しかし、ひとつの生命がそこに在ることで、世界はふと立ち現れ、気配を帯び始めます。
水辺に佇む白鷺の姿は、単なる一羽の鳥ではなく、
その瞬間、その場所における世界そのものの顕れのように感じられました。
白鷺が立つことで、水の揺らぎも、光の反射も、空気の湿りも、ひとつの像として結ばれる。
それは、小さくも確かなひとつの「照り」であり、世界をひらく光のような存在です。
この写真は、その一瞬に立ち現れた「一照」の気配を写したものです。

【止観】
人はしばしば、目の前の事象に心を奪われ、そこに留まり続けてしまいます。
しかし一歩引いて見つめるとき、はじめて世界は別の相を見せ始めます。
「止観」とは、心の動きを静め(止)、そのうえでありのままを観る(観)こと。
いわば、自己を外から見つめるような視座――現代でいうメタ認知にも通じる在り方です。
この写真では、ひとつの存在を捉えながらも、それに囚われるのではなく、
周囲の空間や気配を含めて、全体として感じ取ることを試みました。
対象を見ているようでいて、その見方そのものを見つめる。
その静かな往復の中に、世界はより広がりを持って立ち現れてきます。
この一枚には、そうした「止観」の感覚を重ねています。

【寂然ー桜島】
鹿児島の知覧特攻平和会館で、「大義」と大書された一枚の色紙に触れ、深い衝撃を受けました。
また、「先人たちが、いまもなお日本を護っている」という、織田邦男元空将の言葉が心に残っています。
この桜島の姿に向き合ったとき、私はその先人たちの存在を重ねずにはいられませんでした。
静かに佇む山は、何も語らず、ただそこに在り続ける。
「寂然」とは、欲を離れ、すべてを超えてなお静まり返った境地を指します。
その在りようは、個としての思いを越え、ただ大きな流れの中に身を委ねた存在にも通じるように感じられます。
穏やかな水面と、ゆるやかに立ち上る噴煙の中に、
声なき気配としての先人の姿を重ね、この一枚を撮りました。
それは、過去と現在とが静かに交わる、ひとつの「寂然」の現れです。
